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移住者さんの暮らし

東京サラリーマン一家、中野方に移住する【1】

2021年7月、私たち一家は東京から中野方にやってきました。現在は、中野方定住促進住宅「住まいる中野方」で暮らしています。

中小企業営業マンの夫、フリーランスライターの私、保育園児の息子という、東京のごく普通の家族だった私たちがどうして移住したのか、そして、なぜ中野方を移住先に選んだのか。

私たち一家の「移住まで」と「移住後の暮らし」について、連載の形でぽつぽつと綴っていこうと思います。

 

ずっと東京で暮らすと思っていた


移住する前は、東京・板橋区の団地で暮らしていました。
すぐ側には幹線道路と高架の線路があり、朝早くから深夜0時を回るまで電車が走っており、その音で1日の始まりと終わりを感じるような日々でした。

夫は都心部に通勤する会社員、私は2年ほど前に会社を辞めフリーランスのライターとして仕事をしていました。息子は1歳の頃から近くの保育園へ。私が会社員ではないことを除けば、東京の典型的な共働きの子育て世帯だったと思います。
夫は生まれてからずっと首都圏で暮らしていた人でしたが、私は恵那のお隣・稲武で育ち15歳で親元を離れ、愛知の都市部と浜松で学生時代を過ごし就職を機に上京。16年を東京で過ごしたことになります。

人の多いのだけはどうにも慣れませんでしたが、東京は便利で何でもある、楽しい場所でした。
独身の頃は、「いつかあの街に住みたいなぁ」と思い浮かぶのはすべて都内の街で、東京で仕事も生活も続けていくものだと思っていました。なにせ、上京した当時の憧れは「タワマン高層階のバルコニーで夜景を眺めながらシャンパンを飲む」こと、だったくらいですから。

 

「東京は、子育てする場所じゃない」

 

はっきりと移住を意識し始めたのは、息子が生まれてからのことです。

東日本大震災で露呈した東京の脆弱さに対する不安も、ずっと根底にあったと思います。
あの日、街が壊滅した訳でもないのに、都内を網目のように走る電車すべてが止まり、店という店からモノが消え、公衆電話に長蛇の列ができ、徒歩で帰宅しようとする人々(私もその1人でした)で溢れかえっていた街々の光景は、今でも忘れることができません。

一方、私は自分が自然豊かな場所で育ったこと、稲武というふるさとがあることはとても幸せなことだと思っていました。
ですが、息子は東京で生まれ、都会で育っていくことになります。単なる親のエゴかもしれませんが、たくさん習い事をして当たり前のように中学受験をして…そんな都会の子ども時代がいいものだとは思えませんでした。

息子にふるさとと言える場所を作りたい、自然の中でのびのびと育ってほしい、そう思うようになっていました。

 

コロナ禍が、私たちの生活を大きく変えた


そんな折、新型コロナウイルスの流行で最初の緊急事態宣言が発令されました。

この期間、夫婦それぞれの仕事の都合もあり、夫と息子が鎌倉の夫の実家に滞在し、私はひとり東京に残るという選択をしました。
家族バラバラでの数か月間を過ごす中で、またしても東京の脆さを感じていました。この頃は、「東京にいなければよかった」と何度も思ったものです。

息子が小学生になるまでには自然豊かな場所に移ろうと夫婦で話していましたが、このコロナ禍の影響で、計画を前倒ししようと考え始めました。
ただ、夫の通勤を考えると、都内に通勤可能な範囲…いわゆる「郊外」「近郊」と呼ばれる地域で住む場所を選ぶことになるのだろうと思っていました。「移住」というよりは、私たちにできるのはあくまで夫の仕事ありきでの「引っ越し」だと考えていたのです。

それが大きく変わるのは、コロナに揺さぶられ続けた2020年が終わる頃のことでした。

(次回へ続く)